サウンドパル
1997年10月号 1997年12月号
はらだみちよのウラのある歌謡曲
1997.10月号
「TVに出ない井上陽水」伝説は、TVに出たくても出してもらえない事実を逆手にとった戦略だった!
 ある日会社へ行くと、自分の席に座っている男がいた。川瀬泰雄(当時22歳)は、少しムっとしながら声をかけた。
「アフロっぽい頭に強面の顔、サングラスかけてコーデュロイのズボンという格好の男が振り向いたんですよ。確か茶色のシャツを着ていて、壁と同化して見えたなあ」
その様子に気がついた女子社員は、アンドレ・カンドレさんですと紹介した。
「えっ、本当なの!? がぼくの第一印象でした。だって声と雰囲気が違いすぎましたから(笑)」
実は1週間ほど前、社長である堀威夫から1本のデモテープを渡され「数日うちに来るはずだから、会ってみてくれ」と言われていた。それがアンドレ・カンドレだった。
しかし、艶と輝きのある魅力的なテープの声は、その男の格好・雰囲気とまったく重ならなかった。
「話しているうちに、すごくビートルズの匂いがしたので『ビートルズ好きなのか?』って聞くと『別に』と答える。
でもぼくがすごくビートルズが好きだから匂いを持ってる人は伝わるんです。で、練習室あるからよかったら声を出したらと勧めて、鍵を渡しました」
川瀬はその間、溜まつている仕事をかたづけていたが、2時間経っても彼は戻ってこない。心配になり練習室を覗きに行くと、男はギターを弾きながらひっちゃきになってビートルズを歌っていた。
「で、ハモったわけ。そうすると彼は、この曲は知らないだろうと挑戦的にアルバムB面の4曲目みたいのを選曲するわけ。
それもハモると次は、次は……と歌って、結局10曲くらい歌ったかな」
川瀬は学生時代ビートルズのコピーバンドをやっていた。だから完ぺきにハモれたのだ。ところがアンドレ・カンドレは……、
「東京ってスゴイなあ、サラリーマンがビートルズをハモれちゃうもんなあ」とすごく驚いたという。
この日をきっかけに、意気統合したふたりは、二人三脚の人生が始まつた。
このアンドレ・カンドレこそが、のちの井上陽水である。そして先の堀威夫の名前からわかるように、所属はホリプロダクション。
つまり、陽水は有名事務所のアーチストとしてミュージシャン生命をスタートしたのだった!
'69年9月アンドレ・カンドレは、「カンドレ・マンドレ」という楽曲でデビュー。
どちらもややこしい名前だが、ハッパフミフミのようなもので、特に意味はない。その後2曲リリースしたが、結局どれもヒットしなかった。
「必死になってTV局に売り込んだんですよ、でも『そんなきたない格好じゃ』と言われて使ってくれなかったですねぇ。
でも楽曲には絶対の自信がありましたから、じやあTVに出ませんと腹をくくったんです。
TVは出るもんじゃなく見るもんだ!って(笑)」
井上陽水の“TVに出ない”伝説は有名だが、実は出してもらえなかった事実を逆手にとったものだった。
「だからイベントが中心の仕事になったんです。でもその頃イベンターは大学生が多かったので、ネクタイしめて背広で、ホリプロの名刺を持って行っても、うさんくさいヤツが来たな−としか思われなかった。
だから、堀社長に頼んで長髪にジーンズという格好を許してもらったんです。
名刺もカレードスコープと刷って。住所と電話はホリプロなんですけど、ミュージシャンの会社と印象づけるためにイメージを優先させたんです」
 川瀬所有の黄色いワーゲンに乗り、ふたりはあらゆる所に出没したし、電車に乗って日本中を駆け回った。
年も1歳違い、風体も似ていて、予備のギターを川瀬が抱えていたこともあり「どちらがアンドレさんで、どちらがカンドレさんですか?」と聞かれたこともあった。またある時、ステージ上に椅子が2脚用意されていたことも……。
それほどアンドレ・カンドレは知名度がなかったのだ。
そして2年経つうちにCBSソニーと契約が切れた。追い打ちをかけるようにホリプロのタレント整理人員の中にアンドレ・カンドレの名前があった。要するにクビの一歩手前状態である。
「とにかく彼をなんとかしたいという気持ちでいっぱいでした。絶対イケるのに何で受け入れられないんだろうと、はがゆくて」
ただ唯一の弱点も見抜いていた。
「曲もいい、声もいい。しかしウイークポイントをひとつ上げるなら詞です。詞が弱かった(インパクトに欠けた)のかもしれない」
窮地に立たされた川瀬だったが、一矢の光が差し込む。それはホリプロの音楽出版を担当していた人が当時ポリドールのプロデューサーをしていた多賀英典と知り合いで、話をつないでくれたのだ。
川瀬はさっそくリリースされたシングルとオリジナルテープを持って、会いに出かけた。
すると多賀は「いい声だね」と興味を示してくれた。渡りに舟である。これをキッカケにポリドールと契約をしてしまう。
「契約してしまつたなら仕方ないということで、ホリプロに残れることになったんです。そのくらい期待されてなかったんですよ(笑)」
この多賀との出会いによって、アンドレ・カンドレこと井上陽水の才能は、開花していくことになる----------。  
(前編・文中敬称略)      サウンドパル 1997.10月号
1997.12月号
井上陽水のヒット曲「心もよう」は故郷の博多へ帰ったとき作った曲、彼自身が付けた題ではなかった!
 不遇の時代を過ごしたアンドレ・カンドレは再デビューをかけ、井上陽水と名前を改めた。これは本名である。
新契約レコード会社ポリドールのプロデューサー・多賀英典との出会いを、マネージャー・川瀬泰雄(当時25歳)は、「この出会いが、陽水の詞をもっと広がりのあるものへ、奥深いものへと目を向けさせてくれることになったんです」と語る。
井上陽水の詞が唯一の弱点と考える川瀬にとって、小椋佳を担当している多賀の存在は救世主的だったのだろう。陽水は多賀と接することにより、次第に詞が変わっていった。
その最初の兆候が現れたのが、'72年4月1日にシングル発売した「人生が二度あれば」である。
「結局そのまま発売されましたが、陽水と多賀さんがもめましてねぇ。あの楽曲は聴いてもらえばわかりますが、父親・母親のことを歌っているんですよ。で、最後は人生が二度あればという内容なんです。
多賀さんの言い分は『まだお父さんが生きていらっしゃって、お父さんは後悔なんかしてないだろう。なんでお前がよけいなお世話で後悔したような歌を作るんだッ。人の人生を左右するような、そんな失礼なことはないんじゃないのかッ』と。もっともですよね。
詞はそこまで考えなきゃいけないのかと、陽水もぼくもガーン!!でした」。
ビートルズが好きなふたりは、詞よりも曲が優先であり、リズムや雰囲気を重要視していた。が、この一件により、陽水は詞の重要性を感じとったのだろう。
セカンドシングル「傘がない」(ユ72年8月1日発売)、サードシングル「夢の中へ」('73年3月1日発売)でわかるように、詞の内容がガラリと変わりはじめ、個性的な光を放ってきたのだ。
一方、TVに出ない宣言をしている陽水の仕事は公開ラジオの出演が多かった。
「あれは東海ラジオのことです。ディレクターの塩瀬さんと、パーソナリティーの森本レオさんと陽水とぼくの4人で打ち合わせを行っていた時、話がすごく盛り上がって森本さんが『今日、井上陽水特集にしていい?』って言ってくださったんです。
で、深夜1時〜3時までの2時間まるまる陽水。まだそんなに売れてる時期じゃなかったんですが、翌日名古屋のレコード店がすごい反響でした」。
また、岩手放送(ラジオ)の北口さんから「音を聞いて良いと思ったから来てくれ」と依頼を受けると、ふたりで出かけていった。このようにポツン、ポツンと陽水の歌を本気で愛し、支援してくれる人たちが増えてきて、ヒットの兆しが見えたのである。
「でも、アリスとバンバンと陽水の3人が出たラジオの公開番組で、たった200名が集まらないなんて時もあったんですよ(笑)。もう昔の笑い話ですけど」。
知名度が上がってくると、局から「井上陽水で特番を作りませんか」と、話が舞い込んでくるまでになった。しかし川瀬は、「全部断りました。あの時ばかりは気持ち良かったですねぇ(笑)」。
逆に売れない時代を支えてくれた人々の顔は、今でも瞼に焼き付いているのだという。
そして人気を決定づける楽曲が'73年9月21日リリースされる。それが「心もよう」だ。
「田舎に帰っていた陽水が、次のシングルにと作ってきたのが「心もよう」と「帰れない二人」でした。どちらも良い曲だったので、どっちをA面にするかでもめたんですよ。
ほくと陽水はアップテンポでオシャレな後者を押していましたが、多賀さんが前者を押した。最終的に多賀さんの説得に納得してうなづいたんですが、ぼくはまだ、作品を見抜くカが少なかったんでしょうかね(笑)。
タイトルは多賀さんが付けました。今では当たり前のように感じますが「心もよう」は心+模様を組み合わせた造語なんです、歌詞にも心もようという言葉は出てきません。たぶん詞の内容が、多賀さんの心の琴線に触れたのでしょう」。
内容を今風にいえば遠距離恋愛だ。遠くで暮らすのはよくないとわかっていながら離れて生活するふたりは、言葉を次第に失っていく。季節が恋人を変えてしまい、自分は、手紙を書く手だてしかない。しかし、そこにさえ本当の気持ちを書けない……。
若さゆえのもどかしさや、いらだちを多賀は「心もよう」と名づけたのだ。
これが若者たちのハートをガッチリとらえ、87万枚の大ヒット!! ビッグ・アーチストとしての地位を完全に確立した。
そして「心もよう」を含むアルバム『氷の世界』(同年12月発売)が日本初のミリオンセラーとなる。快挙を成し遂げたのだ。
アンドレ・カンドレ時代からたった4年後のことだった。
陽水と一緒に駆け足で走り抜けてきた川瀬は、こう彼を評す。
「陽水の人生における要所、要所にぼくや多賀さんがたまたまいて、力を貸しましたが、やはり絶対的に彼はいい曲といい詞を書いた。
そして天才といえる声を持っていた。だから売れて当然です。またリスナーもいい耳を持っていましたね。
今の若い人に改めて彼の作品を聴さ直して欲しい。陽水の世界は奥深いですから」。
川瀬は誰よりも井上陽水のファンなのかもしれない。
 (後編・文中敬称略)      サウンドパル 1997.12月号
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