BRUTUS 1984年7月15日号
Et Tu,BRUTE?
ほとんど20年近く前にBRUTUSのEt Tu, BRUTEという、いろいろなジャンルの人たちが取り上げられるコーナーで、音楽関係では初めてだというので書いた文章。かなり、いきがったところもあるのだが、ミーハー精神もビートルズ好きも相変わらずであり、基本的にはまったく変わっていないので、載せてみました。
ポップミュージックとの出会い    川瀬 泰雄
Vol.1 日本のポップミュージックと流れを共にして、その現場に立ち会う
 僕は、幸運だったと思う。
レコード制作の仕事に携わって15年になる。
 学生の頃から音楽が好きで熱中していた趣味がそのまま職業になって、気がついてみるとここまできてしまった。
ホリプロのレコード制作会社である東京音楽出版に14年間、そして昨年からキティレコードに移って、これまで制作したレコードはほぼ1000曲になる。
その中には、もちろん大ヒット曲もあれば、いまとなっては関係者の手元にも残されていないようなまるで売れなかった曲もある。アイドル歌手の歌から演歌、グループサウンズ。それからニューミュージックにハードロック、あるいは、一発狙いの企画モノまで。
 そうやって1000曲に及ぶレコード制作をこなしてこれたのも幸運にはちがいないが、それにも増して僕が幸運だったと思うのは、僕自身が音楽に興味を持ち始めていまに至るまで常に自分の抱いてきた関心が、そのまま日本のポップミュージックの流れと一緒で、しかもその現場に立ち合ってこれたということだ。
 その流れをこれから書きつぐ内容の目次風に並ペていくと、まず最初にくるのが小板一也。僕は昭和22年生れだから、彼の歌う「ハートブレイクホテル」にシビレたのは小学生の時だった。それからこの曲にオリジナルがあるのを知った。
それがプレスリーで、ロックンロールと出会い、あとはお決りのベンチャーズ、ビートルズにのめり込んで、彼らが解散した年にこの業界に入った。
 グループサウンズからロック、そしてフォーク、ニューミュージックに移る時期に井上陽水とモップスに出会い、やがて当時14歳だった山口百恵の担当になつた。
 それからニューミュージック系の人たちが歌謡曲を書くその始まりに立ち合い、現在の音楽状況に至るのである。
Vol.2 ボビー・ヴィーのコンサートを見に行き、奇妙な楽器エレキに出くわす
 若いプロ野球選手が、自分を語るとなると、必ず「子供の時にテレビで観た長嶋や王に憧れて……」という話になってしまう。それが本当のことなのだろうが、実にありふれた話で面白くない。
 これは僕の年代の人間が自分の音楽体験を語る時も同様で、開いている方は「またアレか」と思ってしまう。
まず「アメリカ体験」があって、FENから流れる向うのポップスに憧れて、プレスリーにいかれて、ビートルズにかぶれる-------------まったくもって、ありふれた体験で困ったものだが、僕も、まったくその通りだった。
 「その頃、僕は中国の雲南省で初めてリバプールサウンドを開いた……」とでも書けると少しは面白くなるんだが、そうはいかない。
 僕は横浜で生れた。父親が進駐軍関係の仕事をしていたから、よくPXで買ってきてくれたお菓子やおもちゃが僕にとつてのアメリカ体験の始まりで、78回転のレコードでよくハンク・ウィリアムスやパティ・ペイジを聞いた。ウェスタンからなじんでいったことから最初に小坂一也が好きになった。そうして彼の歌う歌に原曲があることを知って、プレスリーに走った。
すべてのレコードを買った。するとプレスリーの歌にも、さらにオリジナルがあることに気がついた。リトル・リチャードとかカール・パーキンスといったR&Bのシンガーたちだった。驚きだった。それまであんなに激しく感情をむき出しにするようにして歌う歌を聞いたことがなかった。
 やがて僕なりに、なんとなくロックンロールの全貌が見えてきた。プレスリーの入隊と共にロックンロールが下火になりかけて、除隊後は映画『ブルー・ハワイ』とか一連の青春映画のスターになったが、僕は除隊後のプレスリーには興味を失くしてしまった。
 そんな頃だ。友だちと二人で来日したボビー・ヴィーのコンサートを見に行った。その時パックで演奏しているミュージシャンが、薄べったい奇妙な楽器を弾いていた。ギターみたいなものだつた。
後になって、それがフェンダーのエレキギターであること、弾いていたのが、あのベンチャーズのドン・ウィルソンとボブ・ボーグルだったことを知った。さっそく僕は銀座のヤマハの洋盤コーナーでベンチャーズのレコードを見つけて、頭の中はエレキで一杯になった。そして友だちと二人でエレキギターを買った。
Vol.3 ビートルズ・サウンドにショックを覚え、コピーにつぐコピーの日々
 エレキギターを買って有頂天になった。
 小学校からずっと一緒の友だちと二人でベンチャーズのコピーをしようと思ったが、エレキは音がまったく出なかった。不思議だった。
よくみると、“ボリューム”なんていうポッチがついている。いろいろ回してみたが、何の変化もなかった。僕らはまだ、エレキギターにアンプが必要だということさえ知らなかった。
ともかく僕らはアンプというものを手に入れ、ようやくにしてベンチャーズに一歩近づき出した。小さなアンプ一台に、二つのギターをつなぎ、二人でメロディを必死にコピーした。
そうしているとどうも変だということになった。レコードを何度も聞いている内に、メロディの後で「ブンチャカ、ブンチャカ」している音がある。あれは何なんだろう。どうやっても、ギターからはそんな音は出ない。僕らは木琴やハーモニカを吹くのと同じように、メロディだけを必死に弾けるように練習したが、ベンチャーズにはまつたく近づけない。
ある日友だちが、再び銀座のヤマハで一冊の本を手に入れてきた。
その本を見て、初めて、この世に“コード”というものがあることを知った。
昭和30年代の半ば頃の話で、僕らは“解体新書”的情熱をもってエレキを追求していつた。
 やがてジャズ喫茶に出没するようになり尾藤イサオやブルーコメッツにしびれ、ブルージーンズが、それまで入っていたサックスを楽器編成から除いて、すっかりベンチャーズスタイルに変わっていた。
生で聞くエレキサウンドは迫力があったし、僕らは、やがていっぱしのベンチャーズ・コピーバンドとして、当時ハヤリ出したダンスパーティに出演するようになった。
ジョージ・マハリスばりの「ルート66」も僕のレパートリーだった。そんな頃、ある日、友だちがキャッシュBOXを持ってきた。ちょうど坂本九の「スキヤキ」が70位ぐらいに落ちてきた頃で、そのランキングの下の方から、とんでもない勢いで上位にあがってきたグループが目についた。
 ありふれた音楽体験のきわめつけ、ビートルズだった。僕らは、再び銀座のヤマハに駆けつけ、そこでまだ日本に4〜5枚しか入っていなかったビートルズのレコードを買った。
 これはすごかった。その日から僕は、自分もメンバーじゃないかと錯覚するくらいの、コピーにつぐコピーの日々が始まった。
Vol.4 デビューすれば売れるGS全盛期に入ったが、バンドのほうは内部分裂
 毎日がビートルズだった。イメージの話ではない。
 大学一年の時に、僕は、毎日バンドでビートルズを演奏していた。ある日知り合いのバンド仲間から、横浜の中華街にある〈レッドシューズ〉でバンドを深していると教えられた。僕らは好きな演奏をして金をもらえるなら何も不満がなかった。オーディションを受けにいくと、すぐに採用され、連日ビートルズを演奏するようになった。
 昭和40年。その年の2月に米軍は北爆を開始。
〈レッドシューズ〉の客の90%はベトナムからの帰休兵だった。その時初めて、アメリカ人でもビートルズが嫌いな人間がいるという素朴な事実を知って驚いた。そんなことがあるとは夢にも思っていなかった。
僕らの演奏が気に入らず、リクエストをしてくる兵隊がいた。黒人兵が多かった。彼らは、ビートルズよりR&Bだった。そこで僕らも、それをいい機会にテンプテーションズの「マイガール」を始め、当時流行していたモータウン系のR&Bに関心を強めていった。
〈レッドシューズ〉の客の中には、本国でバンドをやっているという二十歳ちょい前の、ちょうど当時の僕らと同じ年代の兵隊もいて、一緒に演奏をするようなこともあった。
そういう兵隊の中には、帰休の度に、僕らのところに来るようになって、一緒にビートルズをハモったりして、また前線に戻り、それっきりになってしまった兵隊もいた。反戦とは無縁の学生生活であったが、ベトナム戦争とは近かった。
 日本の音楽状況は、グループサウンズ全盛期に入り、新しいバンドがデビューすれば、必ず売れるという時代で、各レコード会社やプロダクションは新しいバンドを必死になって探していた。
同じ頃、本牧の〈ゴールデンカップ〉では、デイヴ平尾のバンドが人気を集め、それがやがてゴールデン・カップスとしてデビューしていった。
 また〈レッドシューズ〉に出演していたもう一つのバンドに、僕より三歳ぐらい年下のアイ・高野がいて、すでにそこでゾンビーズの「I LOVE YOU」を歌って人気を集めていた。それが彼らカーナビーツのデビュー作になつた「好きさ 好きさ 好きさ」だった。
 僕らにも話がきた。決断をせまられた。ドラムとベースが「イヤだよ」と言った。その空気につられて」思わず僕もミュージシャンの道をあきらめた。
Vol.5 人気絶頂のオックス担当になり、失神少女の救護活動で右往左往する
 ビートルズが解散した年、僕はホリプロのレコード制作会社に入った。
 最初に担当させられた仕事は、グループサウンズの最終ランナー的存在だつたオックスの脱出作戦だった。
まだ大学を卒業する前で、見習い風に会社に出入りしていた。
ちょうどその時、オックスが八王子の〈サマーランド〉に出演することになった。当時のオックスは人気絶頂を極め、行く先々でファンにとり囲まれ、大変な騒ぎになった。
僕が担当させられたのは、舞台が終った後に、どうやってファンの目をごまかして、オツクスを無事に〈サマーランド〉から脱出させるか、というガードマンに近い仕事だった。
 僕は、初仕事ということもあって、結構張り切って、作戦を立てた。
 まず演奏が終ると同時に地下の駐車場に彼らを連れていき、そこで車に乗せ、ファンが待機している楽屋ロの脇を通り抜けて〈サマーランド〉の出口に向うというプランだった。
オックスは僕の作戦通りに演奏が終ると、ただちに地下駐車場に走り込み車に乗った。完璧だった。
そうして一番の難関の楽屋ロの脇も、ファンに気づかれずに通り過ぎようとした。女のコたちは楽屋口の方に注意を向けていた。さあうまくいく、そう思った矢先に車が止まった。
楽屋口の脇に信号があった。そこまで計算していなかった。それが何と赤に変わった。どこにでも勘のいい人間はいるもので、それが見つかってしまった。あとは人の海。車の窓という窓は手の脂でねっとりと汚れ、車は揺れるし、もう、あと十メートルのところで出口だったのに…………。
(無事に脱出した車の中で、丁度その日に府中で起きた3億円強奪事件のニュースが流れていた。)
 それから二度目の仕事も、やはりオックスで、今度は日比谷野音だった。その日僕は、大学の卒業式だった。野音の仕事をすまして式場に行く予定にしていた。
 その日の僕の仕事は、脱出計画ではなく、失神少女救護業務であった。当時のオックスはすごかった。客席で少女たちがバタバタと失神した。
その日も、彼らの演奏が始まるとすぐに失神者が出た。その度に僕らは救護室に彼女らを運び、症状の重い順に救急車に乗せて病院に運んだ。一人二人ではない。何十人と失神した。グループで来ていたコが、別々の病院に収容され、それを深す仲間が「あのコはどこ?」などと泣きそうになるし持ち物が紛失したと騒ぐやらで、
結局、僕は卒業式には間に合わなかった。
Vol.6 つっぱり陽水は無関心を装いながらも、実は大のビートルズ狂だった
 1970年当時のホリプロには、ヴィレッジ・シンガーズやパープルシャドウズなどグループサウンズ系のタレントがずいぶんいた。
僕は、あの甘ったるい歌詞を歌うグループサウンズが嫌いだったから、ぜんぜん興味が持てなかった。
その中でモップスだけが彼らの音楽志向が、ちょうど僕が〈レッドシューズ〉で演っていた頃関心を強めていった英国系のR&Bに向っていた。
音楽の趣味がピタリと合った。僕はすぐにモップスの担当を願い出た。実にアッサリと担当をまかされた。
当時モップスは「朝まで待てない」一曲だけのヒットで、その後まつたく売れず、音楽は前衛に走り出すし、仕事といえば新宿と池袋のジャズ喫茶に出るくらいだった。それも客が三人なんていうこともザラだった。担当者は渡りに船で僕に担当をゆずった。
 ちょうどその頃、コールテンのうす汚れたジャケットを着てサングラスをかけた陰気な若者が、僕の机の横に来てデモテープを聞いてくれと言った。聞いてみると、ビートルズの影響がありありとわかる作品だったが、メロディは素晴しくきれいだった。
僕は、その彼に「ビートルズ好きなの?」ときいた.すると貧乏画家といった雰囲気の彼は「別に」と言った。つっぱっていた。
それが当時“アンドレ・カンドレ”の名前でデビューした井上陽水だった。デビュー曲「カンドレ・マンドレ」はまったく売れなかった。彼が、またしばらくして僕のところにやって来た。練習場の鍵を貸してくれと言う。
僕は鍵を持って練習場まで案内してやった。
一時間程たって、ふと気になって僕は練習場をのぞいてみた。彼はそこでビートルズを必死に歌っていた。
僕は昔の気分に戻って、ふいに彼の歌にハーモニーをつけて歌い出した。そうやって話すこともなくただビートルズの歌を二人で10曲近く歌った。歌い終ると陽水は「東京はスゴイ」と言った。「サラリーマンが、ビートルズ、ハモっちゃうんだもんなあ」とポツリと言った。
その練習場の出来事以来、僕らは打ち溶けるようになって彼の担当にもなった。
CBS・ソニーから3枚のレコードを出したが、まるで売れなかった。ホリプロの人員整理の対象にものぼった。
その直前に僕はポリドールで当時フリーのディレクターだった多賀英典氏(現キティレコード社長)に彼のデモテープを聞いてもらっていたのである。
Vol.7 メッセージソングが終わりを告げ、陽水の才能が受け入れられる時代に
 陽水のデモテープを開いた多賀氏は「いける」と言った。
あの時多賀氏が「ノー」と言っていたら、ホリプロの人員整理の対象にもなっていた陽水は、それっきりになってしまったかも知れない。
僕らは多賀氏の言葉にカを得て、今度はポリドールからレコードを出すことに決めた。
名前もアンドレ・カンドレから井上陽水に変えた。
多賀氏に出会う以前は、僕は、もっぱら洋楽志向だったし、ロックに日本語の詞は絶対に合わないと信じ込んでいた。極端にいえば、詞なんかなんでもいいと思っていた。モップスもロックは英語で歌っていたくらいだ。
ところが、多賀さんという人は、実に言葉に対する感覚のデリケートな人で、詞に対する注文は厳しかった。そして、目の前で、僕は、いいメロディにいい詞をつけると素晴しい歌になることを教えられた。
考えてみれば、当り前のことだが、当時の僕はそれが新鮮で、一種のカルテュアショックだった。
よきプロデューサーを得て、陽水のポリドール移籍第一弾「断絶」が出た。
 バックはモップスの連中が担当し、アレンジもモップスの星勝に頼んだ。
なにせ2年間彼の担当してきて売れなかったのだから、このレコードは、何としても売りたかった。
そのためにコンサートをブッキングしようとしたが、当時井上陽水の名前だけではむずかしく、結局、高田渡や遠藤賢司のコンサートにムリヤリ入れてもらったりして、地方回りを続けた。
当時吉田拓郎や泉谷しげる全盛の頃で、彼らのコンサートは、みんなしゃべりが上手だった。コンサートの半分は、しゃべりで客をわかせたりしていた。ところが我が陽水選手は、まるでデメ。無理してしゃべってはみたが、ぜんぜん受けない。
それでも彼の歌を聞いた客からは評判がよかった。その内、彼がコンサートでポツリと言う言葉が受けることがあった。
僕らはそれを忘れずにメモして、次のコンサートの時にも、同じ“ポツリ”を使ったり、ともかく客に受けることで必死だった。
そうした努力が実ったというのか「断絶」は売れ始めた。
 メッセージソングは終り、時代が確実に変わつていった。陽水の出番がきた。彼の才能を信じてきた自分がまちがってなかった。そのことが何よりもうれしかった。以後「センチメンタルII」・「もどり道」と彼のLPは売れ続け、一時はベスト5に3枚のLPが入っていた。
Vol.8 デビュー当時から、山口百恵はただ者ではない不思議な力があった
 ある時、僕は陽水と二人で、日比谷の野音で、ホリプロが売り出そうとしていた3人のアイドル歌手の発表会を見に行った。
森昌子と石川さゆり、そして山口百恵だった。
当時の山口百恵は一作目のシングルを出したばかりだった。
 その時僕は、陽水と冷やかし半分で彼女らのステージを観ていて、3人の中では山口百恵が、人気はなかったけれど、一番光っているように見えた。
 当時、僕は陽水のマネージャーも兼ねていた。モップスは鈴木ヒロミツがタレントに活路を見出すなど、それぞれに動き出してすでに解散していた。
 僕は、マネージャーをやめて本来のレコード制作一本に戻りたいと思っていた。そんな時に山口百恵を見たのだ。ちょうど彼女の担当者が、事情があって会社をやめることになっていた。
 それから数年後の百恵を知っているならば、担当者になりたがるスタッフも多かっただろうが、当時の百恵は、まだ毎年入ってくる新人アイドル歌手の一人に過ぎなかった。
「僕に担当させて下さい」と一言言うだけで決まってしまった。やがて、ホリプロの思惑とは別に、桜田淳子を加えた中三トリオということで人気があがっていった。
石川さゆりは学年が彼女たちより一つ上だった。それだけの理由で、中三トリオには乗りそびれてしまった。以後山口百恵が引退するまでの8年間、僕は彼女のレコード制作を担当することになった。
陽水と百恵は性格もまったく反対ではあったが、僕の興味の対象としては、違和感はまるでなかった。
陽水の方でできないと思うことを百恵のレコード作りの方に生かしたり、またその逆であったり、僕自身のミーハーな部分がうまくバランス感覚を発揮していたと思う。
ともかくこの山口百恵というアイドル歌手は、付き合い始めて驚いた。
まず、こっちが常に彼女の力では、ちょっとむずかしいという一段上のことを要求すると、必ず彼女は、それに応えて、僕らの予想以上のものを出してくる。タレントとディレクターの関係として、これ程面白く、また緊張感のあるものもない。ただ者じゃなかった。そういう意味では知らない内に、僕や作曲家たちを緊張させるだけの不思議な力があった。
彼女は日に日にスターへの道を歩き始めた。
そして音楽状況も変わりつつあった。歌謡曲とニューミュージック系などの音楽ジャンルとの境がこわれ始めていた。
Vol.9 「横須賀ストーリー」が起爆になり“仕掛けの核”はさまざまに核分裂
 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ」を聞いた時、これはスゴイなと思った。
言葉もあるし、ドラマもあって、しかもサウンドは切れ味のいいロック。
作詞をした阿木燿子さんという人にも、ものすごく興味を持った。
山口百恵のレコード制作を担当するようになってからは、三日に1回はスタジオに入ってレコーディングをしているといったペースだった。
僕自身の関心としても、次第に歌謡曲の作り方自体をもう少しちがうものにしたいと思い始めていた。
その矢先に「港のヨーコ……」を聞いた。
あの二人に頼んだら、何か面白いものを作ってくれるのではないか。そんな気がして、僕は早速彼らに会った。
まず百恵のLPのために2曲を依頼した。面白いものができる期待と、初めて組む仕事ということもあってヒット戦線のタマになるシングル盤の作品を頼むのは、ちょっとこわい気がした。
しかし出来あがってきた作品は素晴しかった。僕は、その内の1曲をシングル用にかくしておくことにした。そうやって生まれたヒット曲が「横須賀ストーリー」だった。
 あの曲が、彼女には転機になったと思う。
ロックを歌う山口百恵というイメージは、それまでの彼女のイメージを裏切った。
そういう裏切りが彼女の場合の“仕掛けの核”でもあった。
また彼女自身、新しい試みに必ずといっていいほどきちんと応えてくれる。
僕らは、その度にまた次の手を考える面白さと苦しみを同時に背負わされるという繰り返しだった。
だから彼女が引退した時、字崎竜童氏がいみじくも言った。「これでもう、百恵の曲を書かなくて済む」
彼女の曲は、必ずヒットさせなければならないというプレッシャーも大きかったが、やはりそこには百恵自身が持っている、あの知らない内にスタッフに緊張を強いる強烈なパワーの存在も見逃せないと思う。
 「横須賀ストーリー」は確実に彼女の守備範囲を広げた。
それが谷村新司やさだまさしの曲につながっていったのだと思う。あのさだまさし作「コスモス」は締め切りなしの条件で依頼したこともあってか、できるまでにほぼ一年かかった。
しかし「いい日旅立ち」にしてもそうだつたが、僕にとっては、それぞれのアーチストが歌謡曲というジャンルに新風を吹き込んでいくその現場に立ち合うことの面白さに熱中した時期でもあった。
Vol.10 引退がすでに決まっているアイドル歌手には、この曲しかない!
 山口百恵との8年間の仕事の中で一番苦しかったのは、彼女の引退が決ってからだ。実際に引退するまでに1年あった。
その間に彼女に、どんな曲を歌わせたらいいのか。これは悩んだ。
 一番最後の曲で悩んだのではない。最後はもう「サヨナラ」に決っているわけだから、簡単といえば簡単だ。
大スターが、幸福の絶頂で引退しようとしている。レコードプロデューサーとしては、そうめったに立ち合える局面ではない。だから僕らスタッフは追いつめられた。
一番むずかしいのは、ラストソングにいくその前の曲だ。「愛染橋」「しなやかに歌って」ときて、その次の曲につまってしまった。
彼女は婚約も発表して幸せいっぱいの状況で、それなら幸せでふんわりしたような歌がいいのか、それとも激しくいくのか。スタッフの間でもカンカンガクガク、いろいろな意見が出された。
僕はかなり煮つまつて、それでも、頭のすみっこに「やはりここはロックだな」という漠然としたものがあった。
 たまたま、ぽっかり時間ができて家に帰った。
僕は釣りが好きで、たまたまその時、道具をいじったりしていたら、ふと釣りの関係でもらったTシャツが目にとまった。
その胸のところに「フライフィッシング・ウィドウ」という文字が書かれてあった。僕は思わず「これだ!」と思った。
“ウィドウ”この文字に吸い寄せられた。意味はない。幸せの絶頂にある彼女が歌う歌に“ウィドウ”(未亡人)というのはあまりにも唐突であったが、それにロックンロールをつけると、もうそれ以外にはないというくらいに僕の頭の中で固まつてしまつた。
 こうして悩み抜いたあげく「ロックンロール・ウィドウ」は誕生した。
あとは、大きな仕事のかたまりがひとつひとつ片づいていくような気分の内に彼女は引退した。
 彼女のことでいろいろ印象的なことがあるけれど、例の相姦裁判のあった時の彼女の言った言葉が忘れられない。
僕らがスタジオで待っていたら、そこに彼女が裁判所から戻ってきた。みんなが「どうだった?」と聞くと、彼女は「テレビとおんなじ」と明るく言ったので「さすがだな」と僕らは思った。
ところが後になってその時の話を聞くと披女は「本当は泣きたいくらいこわかった」と言った。それに続いて「でも山口百恵って泣かないんだよね」と言った。
Vol.11 映像との接近度が深まれども、不屈のミーハー精神には変わりなし
 レコードのプロデューサーというのは、結局のところ、いい才能のある人間を見つけて、そいつとうまく付き合っていく。
そのことに尽きる。
 一時海外レコーディングというのが流行した。
僕も山口百恵の「ゴールデン・フライト」のLPの時に経験したことがある。
彼女が到着する一か月前にロンドンに入ってカラオケを作ることになった。ミュージシャンには、元キング・クリムゾンのメンバーとかカーブド・エアーのドラマーらが参加した。
 ところが初日で、ミュージシャンと険悪になつてしまった。僕の思っている音楽にならない。
いくら優秀なミュージシャンが演奏しても、こちらのイメージにならなくては、何をしに来たのかわからない。
その度に、僕はクレームをつけたのだが、遂に彼らは怒り出した。
僕は、「これは、日本で売るためのレコードなんだ」その一点張りで説得したが、彼らは一応納得してみるものの、明らかに不満を抱いたまま演奏を続けた。
ところが、そこがミュージシャンのいいところなんだが、演奏している内に、だんだんと乗ってくる。
あるところまできたところで、すごくいいフレーズが出てきた。「これでキマリ!」ということになつて、テイクしたそのテープを彼らに聞かせたら「俺たちもそう思う」。
それからは、彼らとは仲間同然、実に楽しく熱っぼい仕事ができた。
その時の教訓は、後に陽水の録音でアメリカに行った時も役に立った。要は、レコーディングに対する熱意がしっかりしていれば、必ずいい仕事ができるという単純な真理だ。
 この15年間でレコード界の技術革新もめざましく、僕の入った頃は2トラックだったのが、いまは24トラックが常識だ。
昔は全員の演奏がピタッとそろうまで録音した。だから自分の制作したものでも、誰かのセキがそのまま入っている曲なんていうのが必ずあった。しかしいまは例えばベースの音が悪ければ、それだけを簡単にとりかえることができる。コンピューター技術もかなり導入されてきている。
しかし、それといい歌を作ることは、ほとんど関係がない。
これからは音楽はますます映像と接近していくだろう。
レコードが売れなくなったのは事実だ。しかし音楽は音楽だ.この世にはいい音楽とよくない音楽があるだけだ。僕は不屈のミーハー精神で、これまで通りにやっていくだけである。
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